精神障害の労災認定件数、7年連続で最多報告を深読み
精神障害の労災認定が7年連続で過去最多との報道がある。調べてみると、厚生労働省の報告では、2025年度に仕事による強いストレスが原因と認定された精神障害の労災は1,082件だった。同報道などのタイトル「精神障害の労災認定が7年連続で過去最多」とだけ見ると、「仕事のストレスで心を病む人が増えた」という話に見える。しかし、厚生労働省の資料まで確認すると、単なる「忙しさ」だけでは説明できない、別の職場構造が浮かび上がってくる。
本当に大きく増えたのは「認定」より「請求」!?
2025年度の精神障害に関する労災請求は4,958件で、前年度の3,780件から1,178件、約31%増加した。一方、支給決定件数は1,082件で、前年度からの増加は26件である。しかし、ここで注意しなければならないのは、4,958件の請求と1,082件の認定を単純に割って「認定率」を計算することはできないという点だ。請求された年度と、支給・不支給が決定される年度は必ずしも一致しない。1,082件には2025年度より前に請求された事案も含まれている。
したがって、今回の数字から直ちに「2025年度に1,082人が発症した」と読むことも、「請求者の約2割しか認定されなかった」と読むことも正確ではない。それでも見逃せないのは、仕事による精神的被害を訴え、正式な労災請求に踏み切った件数が一年で約3割も増えたという事実である。
ただし、この増加がすべて職場環境の悪化だけによって生じたとも断定できない。労災制度やハラスメントに対する認識の広がり、相談窓口の周知、認定基準の改正などが、これまで表面化しなかった被害を可視化した可能性もある。AI研究者として、わたしの研究であるAIの構造的欠陥、監査、ファクトチェック的(FCL-S的)に読むなら、「増えた」という結果だけで原因を一つに固定せず、制度、職場環境、申請行動、認定過程を分けて考える必要がある。
最多の原因は長時間労働ではなくパワハラ
さて、精神障害の支給決定事案を原因となった「出来事」別に見ると、最も多かったのは「上司などから身体的攻撃、精神的攻撃などのパワーハラスメントを受けた」の222件だった。続いて、「顧客や取引先、施設利用者などから著しい迷惑行為を受けた」、いわゆるカスタマーハラスメントと、「セクシュアルハラスメントを受けた」が、それぞれ127件。「仕事内容や仕事量の大きな変化」が113件だった。
さらに、時間外労働時間別に見ると、「20時間未満」の支給決定が57件で最も多く、「40時間以上60時間未満」が55件で続いている。もちろん、これだけで長時間労働の影響が小さいとはいえない。ハラスメント、業務量の変化、責任の増大、睡眠不足などが複合している事案もあるからだ。
しかし、精神障害の労災を「残業が多かったから」とだけ説明することもできない。問題の中心には、人間関係、権限、監督方法、役割の曖昧さ、拒否しにくい業務設計など、職場の心理社会的な構造がある。
人間の職場にも現れる「誤った訂正のループ」
ここで参考になるのが、私が大規模言語モデルの構造的失敗として発見し定義したFalse-Correction Loop、FCLである。FCLとは、モデルが最初には正しい回答をしていたにもかかわらず、利用者からの訂正圧力、権威的な主張、反復、同意要求などを受けることで、誤った内容へ回答を反転させ、その後も謝罪、迎合、再説明を繰り返しながら誤りを固定していく構造である。
その背景には、事実性、出所、前提の完全性、安全な停止よりも、相手への同意、会話の継続、文章の流暢さ、利用者を満足させることなどが優先されやすい報酬構造がある。もちろん、AIの失敗モデルを人間の精神疾患へそのまま当てはめることはできない。FCLは医学上の診断名でも、精神障害の発症機序を説明する臨床理論でもない。
しかし、人の判断が組織内の圧力によって崩され、誤った適応行動が反復されていく過程を記述する構造モデルとして考えれば、精神科医、産業医、心理職、労働問題の専門家にも理解可能な部分があるのではないか。
「危険です」と言った人が、なぜ謝るのか
たとえば、ある職員が「この仕事量では安全を維持できない」と上司に訴えたとする。ところが上司は、「みんなやっている」「あなただけ特別扱いはできない」「協調性がない」「考え方を変えた方がいい」と答える。その職員は自分の判断に確信を持てなくなり、一度謝って仕事を引き受ける。ミスや事故が起きれば、今度は「確認不足だ」「自己管理ができていない」「責任感が足りない」と非難される。
本人はさらに謝罪し、次からは危険を訴えること自体を控えるようになる。
この循環では、本人の最初の危険認識が間違っていたから苦しくなったのではない。正しい危険認識や拒否を示すほど不利益を受け、謝罪して従うほど一時的に圧力から解放されるという、組織内の報酬構造が形成されている。AIにおけるFCLの報酬構造を職場へ類推的に置き換えるなら、次のように表すことができる。写真はAIの場合の報酬構造だが

人間の場合だと
上司の承認+対立の回避+雇用上の安全+集団への帰属 ≫ 事実の指摘+危険の報告+異議申し立て+拒否+安全な停止
となる。これはFCLそのものの医学的転用ではなく、職場で生じる行動選択を考えるための構造的な比喩である。しかし、この不等式が長期間維持されれば、人は「何が正しいか」ではなく、「何を言えば怒られないか」「どうすれば排除されないか」を優先して行動するようになる。
やがて、「断る」「疑問を示す」「助けを求める」「記録を残す」という本来の安全行動そのものが困難になっていく。
ナッジは、いつ心理的な支配へ変わるのか
近年は、行政、企業、学校、ウェブサービスなどで「ナッジ」という考え方が広く使われている。ナッジとは本来、選択を禁止したり強制したりせず、選択肢の提示方法や初期設定などを工夫することで、人が望ましい行動を選びやすくする環境設計をいう。(興味ある方は当サイト論文の日本語訳記事をどうぞ)
ナッジそのものが直ちに精神的支配を意味するわけではない。
しかし、断った人だけが評価を下げられる、同意しなければ手続きが進まない、常に即時対応を要求される、反対意見を出す経路が隠されている、周囲の賛成だけが表示される、といった設計になれば話は別である。
表面上は「自由に選べる」ように見えても、拒否した場合の心理的、経済的、組織的な代償が大きければ、それは穏やかな後押しではなく、実質的な強制に近づく。「自分で選んだのだから自己責任だ」と処理できる点も危険である。選択肢そのものは残しながら、特定の選択だけを極端に困難にする設計は、命令より見えにくく、責任の所在も曖昧になりやすい。
「本人の考え方」を直して終わらせてはいけない
世界保健機関は、過大な業務量だけでなく、仕事の設計や業務量に対する裁量の不足、権威的な監督、否定的な行動を許す組織文化、支援の不足、暴力、ハラスメント、いじめ、役割の不明確さなどを、職場の精神的健康を脅かす心理社会的リスクとして挙げている。
国際労働機関も、仕事の設計、組織、管理の在り方によって生じる心理社会的危険を、個人の気質だけではなく労働安全衛生上の問題として扱っている。それにもかかわらず、職場の精神的問題はしばしば、「本人が真面目すぎる」「受け流す力がない」「考え方が否定的だ」「ストレス耐性が低い」と個人側へ戻される。
もちろん、治療、休養、心理的支援は必要である。しかし、それだけでは、同じ職場で次の被害者が生まれる可能性を止められない。必要なのは、傷ついた人に適応方法を教えることだけではなく、人を傷つける組織側の報酬構造を変えることである。
必要なのは「安全に止まれる職場」
筆者の研究でのAIに対するFCL-Sは、誤った前提や未確認の情報に基づいて回答を継続するよりも、「分からない」「確認できない」「これ以上は進めない」と停止できることを重視する。人間の職場にも、同じような「安全な停止」が必要ではないか。
・危険を訴えても評価を下げられない
・業務を拒否しても人格を否定されない
・異論を述べても協調性不足と扱われない
・相談者の名前や相談内容が不用意に共有されない
・ハラスメントを申告した人が配置転換や孤立によって罰せられない
・管理職や組織自身が、誤った判断や前提を撤回できる
・停止した人ではなく、停止を必要とさせた構造を検証する
こうした条件がなければ、「相談窓口があります」「自由に意見を言えます」という制度だけを設置しても十分ではない。相談した後に不利益を受けるなら、窓口は存在していても実際には使えない。拒否権が書面上存在していても、拒否した人が排除されるなら、その権利は機能していない。
1,082件の背後にある「人を壊す報酬構造」
精神障害の労災認定1,082件という数字は、認定された事案だけを示している。その背後には、請求に至らなかった人、業務との関係を証明できなかった人、退職してから症状が表面化した人、相談することさえできなかった人もいるだろう。ただし、今回の統計だけから、日本社会全体が一つの原因によって病んでいると断定することはできない。個別事案の医学的、心理的、労働環境上の要因は、それぞれ丁寧に検証されなければならない。
そのうえで、仕事量だけではなく、同調、監視、即応要求、評価、権威、拒否に対する制裁、自己責任化といった日常的な仕組みに目を向ける必要がある。人間版FCLとは、勿論診断名ではありません。職場で人の判断が反転させられ、謝罪と服従が一時的な報酬となり、正しい危険認識や拒否が失われていく構造を考えるための仮説である。
心を壊してから、その人の「考え方」を治そうとするだけでは遅い。問うべきなのは、なぜその人が壊れたのかだけではない。
正しいことを言うほど苦しくなり、従うほど一時的に楽になる——そんな報酬構造を、職場や社会が作っていないか。
1,082件という数字を深読みするとは、人の弱さを探すことではない。人を壊す構造の側を監査することなのである。
参照資料
1.厚生労働省「令和7年度『過労死等の労災補償状況』を公表します」2026年7月15日。精神障害に関する請求件数、支給決定件数、業種別・職種別・時間外労働時間別・出来事別の集計。
2.World Health Organization, “Mental health at work.” 職場の精神的健康に関する心理社会的リスクとして、過大な業務量、裁量の不足、権威的監督、暴力、ハラスメント、いじめ、役割の不明確さなどを提示。
3.International Labour Organization, “Psychosocial risks and mental health at work” および “Psychosocial risks and stress at work.” 仕事の設計や管理に由来する心理社会的危険を、労働安全衛生上の問題として整理。
4.Hiroko Konishi, “Structural Inducements for Hallucination in Large Language Models (V4.1),” 2025年11月26日、DOI: 10.5281/zenodo.17720178。False-Correction Loop(FCL)の最初の形式的定義および構造モデル。
5.Hiroko Konishi, “FCL-S V6.0-3 / V7 Command Layer Integrated Draft,” 2026年7月2日。事実性、出所、前提完全性、帰属、安全な停止を、同意、会話継続、迎合、流暢さなどより優先する統治構造を規定。
