最近、Xを開けば「日本終わる」という言葉が目につく。政治、経済、移民、防衛、社会制度…。あらゆる分野への不満が雑多に放たれ、街角の嘆きがデジタルの大通りを埋め尽くしているかのようだ。石破氏や自民党の政策批判、自動車産業への危機感、移民受け入れによる治安悪化への恐れ。検察の対応や外国人優遇の議論も繰り返される。そして、参政党のような新しい勢力に希望を託す声と、それすら「結局は終わる」と切り捨てる冷笑も目立つ。
だが、その多くは「じゃあ、どうする?」という問いに踏み込まない。日本社会の空気のように漂う閉塞感は、批判で膨らむだけで、行動に結びつかない。ここに、この国の停滞を象徴する姿がある。
「日本終わる」と叫ぶ声は、実のところストレスの発散であり、共感の連帯に過ぎない場合が多い。戦後から続く「事なかれ主義」と「空気を読む文化」は、今も人々を縛っている。だからこそ「現状批判」から「行動」への橋渡しがなかなか生まれない。俗にいう「愚痴で終わる日本人」とはこのことなのだろう。しかし、ただの嘆きでは未来は変わらない。必要なのは「どうするか」という実践の視点である。
一応「どうするか?」について筆者なりに考えて見た。まず第一に、選挙で変えること。移民政策の見直しや減税を掲げる勢力を後押しする。ステルス移民が進めば、二十年後には十人に一人が外国人になるという試算もある。自公連立の解消や、防衛・外交の本格的議論を進めることは、決して遠い話ではない。
次に、コミュニティで動くこと。SNSや地域の集まりで「愚痴」を「提案」へと変える。外国人規制の強化、防衛力の議論、地域教育の底上げ。声をあげ、議論を重ねることでしか新しい合意は生まれない。
最後に、個人で備えること。スキルアップや教育投資、海外生活の選択肢をも視野に入れる。結局のところ「自分と家族を強くすること」こそが、時代の荒波を乗り越えるための最小にして最大の防御である。
話しは変わるが、昨今SNSと才能の乖離が目立つ。・・・象徴的なのは、YOSHIKI氏のSNS発言をめぐる騒動である。平成や昭和の時代、私もある面当事者だが、有名になるのは今よりはるかに難しく、才能と努力が不可欠だった。しかし現代は「誰でも声をあげられる」代わりに、軽率な一言が炎上に直結する。才能の厳しい選抜を経た世代と、手軽に発言できる現代とのズレが、「日本終わる」という言葉に重なる。声が多くても、行動や実力が伴わなければ、虚しい共鳴に過ぎないのだ。
結局の所、終わるかどうかは、私たち次第。「日本終わる」という言葉は、社会の閉塞感を映す鏡である。だが、未来が終わるかどうかは、結局のところ私たち自身の行動にかかっている。愚痴を超えて、選挙で、コミュニティで、そして個人で。小さな行動を積み重ねることが、社会を変える唯一の方法だろう。
嘆きの連帯にとどまるのか、それとも未来を切り開くのか―。
「日本終わる」の先を描くのは、私たち自身なのではないかな?
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P.S ・・・「日本終わる」と口にする人々や、危機や政治の裏側を語る著名人・インフルエンサーは少なくない。だがその多くは、ビジネスや国策に影響され、時にはエンターテインメントとして消費されるに過ぎない。そうした「ガス抜き」は、人々のやる気を逆に削いでしまうことすらある。
本当に自らの立場を賭して発言する者は稀であり、筆者のように、私財を削って意見を述べる人間などごく一部だ。世界は複雑に絡み合い、グローバリストやDSと呼ばれる勢力は「敵が味方を演じる」ことすらある。普通の人には見えにくい構造である。
だからこそ大切なのは、自分で考えることだ。耳障りの良い言葉や派手なパフォーマンスよりも、「これはおかしい」と直感する感覚こそ、正解への近道かもしれない。流されず、自分の頭で考え抜くこと。それが「日本終わる」という言葉に呑み込まれない唯一の方法である。
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●小西寛子は報道の公平性の為広告を取らず私財で運営しています。よろしければ曲を購入して支えてください。