☆応募企画「戦後80年の日本へ―心をつなぐ応援の言葉」優秀作品発表。

☆応募企画「戦後80年の日本へ―心をつなぐ応援の言葉」優秀作品発表。

 令和7年、戦後80年という節目の年にあたり、小西寛子が日本各地の記憶と風景を辿る音楽作品『遙カノ島』を世に送り出すに際し、別企画として「心をつなぐ応援の言葉」を皆さまから広く募集いたしました。

広島・長崎・沖縄をはじめとする、歴史と祈りの交差する土地に寄せて――。
「未来への願い」や「大切な誰かへの応援の言葉」が込められた数多くの作品が届きました。

その中から選考の結果、最優秀作品ならびに優秀作品をここに発表いたします。
どの作品にも温かな想いが込められており、心から感謝申し上げます。

■ 最優秀作品(匿名希望のYさん)

あの夏の広島を想う。


 八十年という歳月が流れてもその記憶は色褪せることなく、胸の奥底に沈黙の炎のように燃え続けている。2025年の夏、日本列島を覆う猛暑に汗が背を伝う。エアコンの涼しさに包まれながらふと問いかける。「あの1945年の夏は、どれほどの暑さだったのだろう。」
広島の人々は、灼熱の空を仰ぎながらどんな祈りを抱いていたのだろうか。

 私の幼き夏の記憶は、川にある。陽光を浴び、友と笑いながら冷たい水へと身を投げる。小石が足裏をくすぐり水しぶきが頬を打つ。その無邪気な笑顔と夏の匂いは、今も鮮やかに蘇る。だが、広島平和記念資料館で見た「もう一つの夏」が重なると、その光景は胸を締め付ける。あの日、広島の川辺で遊んでいた子どもたちの姿。
彼らもまた、私と同じように水しぶきに笑い、空を仰いでいたのだろう。
だが、その先に待っていたのは、光と音がすべてを呑み込む地獄だった。資料館の展示室に並ぶ焼け焦げた制服、砕けたガラスを抱えた壁、黒こげの三輪車。
それらは声なき叫びとなって、静かに語りかけてくる。

 ・・・これは歴史の出来事ではない。あれは確かに「生きていた日常」であり、「夢を抱いた人間の現実」だったのだ。原爆は肉体だけでなく、未来そのものをも焼き尽くした。
愛も、希望も、笑いも、瞬時に灰と化した。
その愚かさに、私は怒りと悲しみを覚える。なぜ人は、己が過ちを繰り返そうとするのか。私の記憶の川は、いつしか広島の川と重なる。
無邪気な水しぶきは、血と涙の流れへと姿を変える。
資料館で見た一枚の写真。焼け野原に立ち尽くす少年の眼差しが、今も私を貫いて離さない。

 その少年もきっと、夏の日差しの下で川に飛び込み、笑い合いたかったはずだ。だが、戦争はそれすら許さなかった。戦後80年を経た今、私たちはその涙をただの悲嘆で終わらせてはならない。
戦争の愚かさ、原爆の残酷さを、未来へと渡す舟にしなければならない。あの夏を想うたび、涙が頬を伝う。
・・だが、その涙は祈りに変わり、行動への力となる。
川に飛び込む少年の笑顔を胸に刻みながら、私は誓う。・・・二度と、あんな夏を繰り返さぬように。
二度と、人間が人間を焼き尽くさぬように、あの夏の広島を、決して忘れない。

■ 優秀作品(神奈川県のT.Kさん)

「平和への願いと誓い」

 正に、母方の祖父が語ってくれた体験談から戦争の悲惨さ、酷さ、そして憎さを感じました。第二次世界大戦中、祖父と同じ隊に所属する方が、千葉沿岸基地から脱走して神奈川県は平塚市の故郷まで、寝ずに歩に通してようやく実家に辿り着いたそうです。

 しかし家の敷居をまたごうとしたその瞬間、憲兵に取り押さえられ、お母さん会いたいさに必死に必死に昼夜問わず、身を潜めながら歩いて歩いて歩きつくし、ようやく着いた我が家… 願いは、目の前に実家の外観を見ただけで思いを果たせずに、連れ帰られ拷問に遭い、亡くなられたそうです。

私は、この実話をはじめて祖父から聞いた時に涙が出ました。中学生だった私。この話がそれから私の戦争に対する考えの基礎になりました。こういう方がどれだけ多く戦禍でほんろうされたんでしょうか?

 戦争を体験された語りべとなる方たちも減っていき、真の戦争の悲惨さを身をもって伝える人が少なくなっていく現在を仕方のない事ですが、時間には抗えません。私はとても苦しい思いです。

 今回の投稿も一つですが、祖父から聞いたこの話を次の世代に伝えていきたい思いでずっといます。今もなお、世界で戦争が行われている怒りを人の思いで浄化して争いをなくしていく、そんな優しさの輪を世界の人たちと作っていきたいです。

平和 当たり前ではなく、尊く気高き言葉です。

■ 優秀作品(大分県のN.Sさん)

 戦後80年は長い様で短いです。両親は実際に空襲を経験した世代です。父親は台湾で2度空襲を経験し生きながらえました。 母は内地でしたが、爆撃により防空壕の蓋が吹っ飛んだという体験を生前語ってくれていたのを覚えています。

 実体験のない私や兄弟は、親の言葉を「ふうん」と受け止めるしか有りませんでした。 その後大人になり両親を看取り、改めて親の戦争体験を正面から受け止める様になりました。当時は親も死ぬ覚悟だったのです。父親は白鞘を父(祖父)から一振り与えられていた様です。

 ・・・いざとなれば、という事ですね。 自国を守るという気持ちは、今の人たちには到底分からないかも知れません。 平和という概念はどの国にもあると思います。しかしながらそれは必ずしも世界共通の概念とはならない。 多様性であるが故に。 世界で唯一の被爆国。その経験から生み出される、導き出されるものは何か。 日本人として考えて行きたいですね。

 今回ご応募いただいたすべてのメッセージは、私たちが未来へ想いを受け継いでいくための大切な記録です。
戦後80年という節目を迎えた今、ひとつひとつの言葉が心に響き、次の時代を生きる人々への希望となることを願っています。

 この企画にご参加くださいました皆さまに、心より御礼申し上げます。
なお、優秀作品に関するギタープレゼントにつきましては、受賞者の方が本企画にご賛同くださったものの、「諸事情により作品発表のみを希望」とのご意向を頂戴いたしました。そのため、贈呈品は小西寛子に委ねられることとなりました。

優秀作品をお寄せくださった二名の方々と真摯に協議を重ねた結果、このギターは小西寛子と上記応募者様の連名にて、児童施設へ寄付させていただく運びとなりました。

●寄贈先が確定しましたらここで報告いたします。有難うございました。

戦後80年の日本の歌「遥カノ島」

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