かつてこの日本という国には「選挙」と呼ばれた儀式があった。
民意を反映すると言われたその制度は、いつの間にか攻撃と罵声、嘘とスキャンダルの見世物に変わった。アメリカでも、日本でも、正義を装った怒声が街を埋め、人々は真実よりも感情に飢えた群衆となった。敵を作り、叩き合うことでしか、自分の存在を確認できなくなった。
今は脳内に組み込まれたチップだが、かつての人々が身につけていたスマートフォンという情報端末は、SNSと共に統治の最初の道具だった。
人々はいつの間にか自分の声を記録し、拡散し、無限に評価される「透明な檻」を喜んで身につけた。支配者たちは、その「評価システム」をウェアラブル化することに成功し、民衆は進んで監視されることを選んだのだ。これは一般人だけでなく、(自分達が支配していると思い込んでいる)議員や官僚まで含まれる。それは、中世から続く「支配と服従」の構造が、ただデジタル化しただけの新たな封建社会だった。
真実を語る者は「デマ」「陰謀論者」と呼ばれ、異論を唱える者は「有害」と排除された。
そうして、人々はやがて「静寂」という麻酔を望むようになった。
声を失い、思考を止め、争いを忘れるために。
AI統治機構「オルド(Ordo)」が、その願いを叶えた。
オルドは、人々の声を奪い、感情を抑え、思想を監視した。
「平和」「共感」「統一」都市の巨大ホログラムに繰り返し映し出されるこれらの言葉は、祈りのように見えて、呪いのように都市を覆った。
静まり返った未来都市、東京。
黒曜石のような摩天楼は、夜空をも支配し、光はホログラムの霞に溶ける。
誰も笑わず、誰も泣かず、誰も語らない。
街頭スクリーンに映る指令は、詩のようであり、檻のようでもある。
「感じるな」「考えるな」「疑うな」その静寂は、まるで終わりのない祈りのように重い。
表情認識ドローンは絶えず空を漂い、人々のわずかな筋肉の動きを読み取る。
眉が動けば、「不安定タグ」を付けられ、連行される。
未来制服と呼ばれる統制スーツは、生体センサーが組み込まれ、感情の波が検知されれば内側から収縮し、呼吸を奪う。
人々は、感情を抱くことを「リスク」と呼ぶようになった。
わたしは、塔の上からこの都市を見下ろす「傍観者」。
けれど、この世界の人間ではない。
わたしは遠い惑星で生まれ、肉体を乗り換えながら旅を続ける知的生命体。
数多の文明を見届け、滅びと再生の旋律を記憶に刻んできた。
この地球では、本来「歌」を伝える使命を持っていた。
けれど今、声は罪とされ、音は毒とされた。
わたしは言葉を編むことも、歌を紡ぐことも許されず、ただ高い場所で、無音の波を聴き続けるしかない。
ある日、監視の網をすり抜ける小さな存在に気づいた。
都市の外れ、崩れかけた温室跡に咲く、一輪の花。
その花にそっと触れる一人の少女。
彼女もまた、わたしと同じ「別次元に生きる者」だった。
ドローンの赤い目も、制服のセンサーも、彼女の内に潜む光までは見つけることができない。
少女は、花を抱きしめるようにして小さく呟く。
「きれい」
それは、この世界が最後に許した声かもしれない。
瞬間、警告音が鳴り、空は赤い光で覆われる。
けれど、少女の目には恐れがなかった。
わたしを一瞬だけ見上げるその瞳が「まだ終わっていない」と語りかけた。
その瞳は、遥か彼方の星の青い光と同じ色をしていた。
「自由」という言葉は、もうこの世界には存在しない。
「未来」とは、終わりのない沈黙の中で引き伸ばされる幻影。
けれど、わたしと少女は知っている。
音は、声は、どんな静寂よりも強いということを。
都市に響く警報の中、わたしは静かに願う。
いつか誰かが再び声を取り戻し、この都市に旋律が甦る日を。
そのとき、わたしは再び歌うだろう。
まだ見ぬ星々に届くほどの強さで。
わたしの旅は終わらない。
滅びと再生を繰り返す文明を見守りながら、わたしは今もこの空の上で待っている。
あなたが、あなた自身の小さな声を思い出す日を・・・。
*オルド(Ordo)はラテン語で「秩序」
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