この夏、参院選を通して「日本人ファースト」という言葉が注目を集めました。選挙後、SNS上では「小学生がこの言葉を使い始めた」との投稿が拡散され、教育現場でも夏休み明けを不安視する声が出ているとの毎日新聞の記事を目にした。
記事の中で、関東の私立学校で17年間教壇に立つ美術教諭の男性は、「本人の意思では変えようのない属性を順位付けするような言葉はいじめのきっかけになりかねない」と危惧している。実際、外国にルーツを持つ児童・生徒は年々増えており、2024年度の学校基本調査によれば約15万人にのぼるとのことだ。
更に、「全国在日外国人教育研究協議会」は8月にオンライン署名活動を開始し、「『日本人ファースト』から子どもたちを守りたい」と訴えている。代表の高校教諭・舟知敦氏は「自身のルーツがきっかけでいじめを受けても、親には言いづらいという声を多く聞く」と語り、各自治体に対応を求めているという。
筆者自身はこの記事を読み、問題提起としての意味を理解しながらも、同時に強い違和感を覚えた。なぜなら、「多様性」という言葉一つで教育現場の課題を片づけようとする姿勢は、かえって現場の複雑さや子どもたち一人ひとりの現実を見えなくしてしまうからだ。
確かに教育現場に不安が広がっていることは事実である。しかしながら一方で、「日本人ファースト」という言葉が直ちに排外主義を助長する、と断定的に結びつけるのは危うさがある。
いじめは、単なる言葉の有無だけで起こるのではなく、家庭や学校の環境、子ども同士の関係性など複雑な要因が重なって生じる。「危険だ」という報道だけが強調されると、問題の本質を見誤りかねない。このように、「危険性」だけに偏る懸念も問題だ。
さて、本題の「多様性の本質」だが、この多様性とは、外国人を受け入れることだけではなく、日本人が自分たちの生活や価値観を守りたいという意思を持つことも含まれるはずである。思想や立場の違いを認め合うことこそが「多様性」の本来の意味だ。
殊、日本には礼儀やマナーを重んじる文化があり、それは他者を排除するものではなく、共に安心して暮らすための社会的知恵である。外国人が日本の文化や法を尊重すること、日本人が自らの文化を誇りとすること。両者が歩み寄ることで初めて「共存」が実現するのだ。
「多様性」という言葉は便利だが、参考のため、実際には言葉の中には次のような異なるレイヤーを含んでいる。
- 個性の多様性(性格や趣味の違い)
- 文化の多様性(生活習慣や宗教観の違い)
- 思想の多様性(政治的立場や考え方の違い)
- 社会的立場の多様性(国籍や経済格差など)
これらをすべて「多様性」で一括りにしてしまうから、議論が空回りしたり、誤解や対立が深まったりするのだ。教育現場では、まずは「個性」と「礼儀」を土台にし、その上で文化や思想の違いを少しずつ学んでいくことが大切だと考える。「多様性」を一言で片づけないため是非覚えておきたいものだ。
さて、「多様性」という言葉は、「自由」という言葉とよく似ています。どちらも耳障りはよいものの、責任や規律を伴わなければ無秩序や対立を生みかねない。
- 自由とは、他者を傷つけないという責任を前提に成り立つもの。
- 多様性とは、礼儀や思いやりを基盤にして初めて意味を持つもの。
そもそも大人でも本当の意味がわからない人がいる「多様性」。ましてや、まだ未熟で事の分別付かない子どもに「多様性」という抽象的な言葉を無理に理解させる必要は無い。大切なのは、日常の中で「相手を思いやる態度」「礼儀やマナー」を学ぶこと。その延長線上に、自然と「違いを受け入れる心」が育つのだ。
ところで、「日本人ファースト」という言葉をどう捉えるかは人によっても違う。大切なのは、その違いを理由に分断するのではなく、互いに文化や価値観を理解し、尊重し合う姿勢を育むこと。余談だが、トランプ大統領の言うアメリカファーストになぞるなら日本ファーストであり、日本人ファーストとは似ているが違う。
多様性も自由も、スローガンではなく、礼儀・責任・相互理解の積み重ねの上にだけ成り立つものだ。
それを大人がまず実践し、子どもに姿勢で示していくことこそ、これからの教育に求められているのではないのだろうか?
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