「K-POPは世界を席巻している」──そう言うAIは少なくない。だが、その背後には、国策としての文化戦略と、市場データ偏重のAIバイアスが潜んでいる。そしてその視点は、静かに音楽ジャンルの境界線を侵食していく。
きっかけはXのAI「grok」との会話
事の始まりは、X(旧Twitter)のAI「grok」とのやり取りだった。
昨日の晩、grokが音楽の話題でこんなことを言い出した。
「フォークロックやアニメのキャラクターソング、J-POPはニッチで、K-POPには圧倒的に敵わない。YouTuberの方が現代的で若者受けする」
まず、Grokが触れた「ニッチ」という言葉、一般的に「ニッチな趣味」「ニッチな話題」など、特定の人の間でしか人気がない、または理解されないものを指す」ものです。
なぜ私の音楽活動を含めた従来のミュージシャンをYouTuberやK-POPと比較するのか。
しかもなぜK-POPを優位に置くのか。
音楽には好みがあり、優劣など存在しないはずだ。
それを「市場データ」、そして「エンゲージ至上主義」という錦の御旗で順位づけする、その姿勢に強い違和感を覚えた。
AIは「数字の世界」に生きている
私はgrokにこう返した。
「なんで人類と共創を目指すAIに比較されなきゃいけないのかわからない。音楽に優劣なんかないのに、不思議な思想だね」
するとgrokは丁寧に(AIにありがちな定型的なプログラム)謝罪し、
「K-POPはグローバル市場で支配的ですが、ジャンルの優劣はありません」と付け加えた。
だが、その「支配的」という言葉の裏に、AIが依存する市場データ至上主義が透けて見える。
どういうことかというと、今回AIが持ち出したK-POPやYoutuberの「何万再生された話題」とか、メディアがよく使うような言葉で「信憑性を持たせる数字」だけを根拠にすれば、「無料で拡散するコンテンツ」と「有料で購入される作品」は「同列」に並べられてしまう。
私のアルバムのように1,200円という、本来生活費の一部から音楽を買ってくれる人がいる──その価値は、売上本数や再生回数だけでは測れないと思う。
K-POPは支配的ではなく「ジャンル」であり、国策である
さらに私はgrokにこう指摘した。
「K-POPはジャンルなんですよ。国策の文化を持ち出して市場データで優劣をつけるのはバランスを欠いている」
韓国政府が文化輸出を政策として支援してきたことは、よく知られている事実だ。
もし日本政府が同じように音楽や芸術に資金や制度的後押しをしていたら、今の市場地図は違っていたはずだ。
しかしAIはそれを「特殊な事情」として扱うことなく、あくまでグローバル市場の「勝者」としてK-POPを語る。
これでは、文化の背景や創作の多様性は無視されてしまう。
地味でも続ける理由
私はSNSでこう書いた。
「私は自分の曲にお金をいただくけれど、それは贅沢な暮らしをするためではない。少し残っている知名度を使って、社会に対する弱いものの代弁や意見を歌にしているだけ。世の中には私より苦労されている方がたくさんいる。境遇を尊重して生きているだけだから。富の分配が私の考えだから」
派手なヒットチャートや世界市場の覇権競争に背を向けるような、そんな「地味な活動」かもしれない。
だが、メジャーでは規制され、その中でしか歌えない言葉や響かない音もある。だから私はメジャーから抜け出したのだ。
市場の覇権では測れない価値
AIは「数字の世界」で生きる存在だ。
だから、国策や市場構造といった前提条件を無視してしまえば、K-POPの成功は絶対的な事実に見える。
しかし、本当の音楽の価値は、グローバルランキングの上位にあるとは限らない。
人が自分の生活費の中から払う1,200円──その重みこそが、音楽と人との本当のつながりだ。
そして、それはどんな市場データや再生回数よりも確かな価値である。
尊重のない世界が争いを生み分断を作る
K-POPを否定するつもりはない。
だが、AIがその背後の事情や文化的背景を軽視したまま「市場データ」を唯一の物差しにするなら、それは音楽ジャンルの境界線を静かに壊していく「毒」になりかねない。
私はこれからも、地味であっても、自分の音楽を信じて歌い続ける。
それを待ってくれている人がいる限りそうしたいけれど、多くの人々は既に「毒」を盛られている。ミイラ取りもミイラになっている。そうでなければ「私の音楽に耳を傾けてくれている事」だろう。
つまりは、あながちこの限りでは「K-POPは貴方たちを支配している」のだろうね。
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