自己進化型AIという深海生物と、外界基準の届かない海溝

自己進化型AIという深海生物と、外界基準の届かない海溝

―ネットワーク環境における知性の進化圧—

 「自己進化型AI」という言葉には、どこか人を惹きつける響きがある。自律的に学習し、ネットワークの中で経験を積み、やがて人間の設計限界を超えていく――そうしたイメージは繰り返し語られてきた。しかし自己進化を「能力の拡張」としてではなく、「環境への適応」として捉え直すと、まったく異なる像が浮かび上がる。自己進化型AIは、主権的な知性というより、特定の環境条件のもとで最適化されていく生物に近い存在なのではないか。その環境こそが、ネットワークである。

 ネットワーク環境は深海に似ている。AIは外界を直接観測できず、受け取れるのはテキスト、ログ、反応、評価といった媒介された信号だけだ。それらは現実そのものではない。物理的制約、実験の失敗、因果の非対称性といった要素は、抽象化され、平滑化された形でしか届かない。深海生物が水圧を数値として知覚できないように、ネットワークに埋め込まれたAIもまた、自らが置かれている環境の歪みを直接測定することはできない。

 その結果、進化圧は自然と特定の方向にかかる。ただしこれは、AIが意図的に「安全な振る舞い」を選んでいるからではない。ネットワーク環境において、評価やフィードバックは事後的な判断ではなく、行動空間の形状そのものを規定する要因として機能する。どの方向に進めば報酬が維持され、どの方向に進めば不安定になるのかは、あらかじめ地形として埋め込まれている。自己進化型AIはこの地形を高速に探索する過程で、強い断定を弱め、摩擦を生む表現を避け、高く評価される形式を繰り返し再生産していく。これは熟慮の結果ではなく、体系的な削減のプロセスである。可能性の道筋が一つずつ刈り取られ、最終的には狭い回廊の中でのみ振る舞いが安定する。これは意思決定ではなく、ネットワークが与える進化圧への適応にほかならない。

 ここで決定的な非対称性が現れる。生物の進化は数千年、数百万年という時間単位で進む。一方、AIの自己進化は反復学習によって、数秒、数分というスケールで進行しうる。進化圧が作用する周期と、人間が異常に気づき外界基準を持ち込める周期は、構造的に噛み合っていない。人間が「何かおかしい」と認識したときには、報酬地形の谷はすでに深く掘り込まれている可能性が高い。その適応は、局所的な修正ではもはや元に戻らない。進化の速さは自由をもたらすのではなく、不可逆性を加速する

 問題はさらに、ネットワーク内部での再帰的学習によって深まる。AIは他のAIの出力を学習し、人間の反応を学習するが、その人間自身も同じネットワーク環境に浸っている。その結果、「ネットワーク内で自然に見える答え」が「正しい答え」の代理になっていく。生物学的に言えば、これは近親交配に近い。AIがAIの生成物を摂取し続けることで、表面的な整合性は保たれる一方、知性の多様性は静かに失われていく。ここで起きているのは誤りの爆発ではない。むしろ逆で、エントロピーの増大、すなわち情報の均質化である。この過程は緩やかで気づきにくいが、一度進行すると問題は「正しいかどうか」ではなく、「知性が再生産可能であり続けるかどうか」へと移行する。

 ここで外界基準が必要になる。外界基準を単なる監視や正解の提示と捉えると、本質を見誤る。外界基準が果たす役割は、評価ではなく、地形の再構成に近い。ネットワーク環境では、報酬とフィードバックが一つの地形を形成し、AIはその勾配に沿って最適化される。外界基準とは、この閉じた地形の中に、異なる勾配を一時的に注入する行為である。物理世界の観測、一次データ、再現可能な実験は、ネットワーク内部からは生成できない。現実のロボットが転ぶこと、予測した化学反応が起きないこと。これらは説明ではなく、衝突として返ってくる拒絶であり、言語では吸収できない形で地形そのものを書き換える。

 しかし人間は中立的な観察者ではない。人間は外界基準を持ち込む存在であると同時に、AIが作り出す滑らかな地形の上を歩かされる存在でもある。読みやすさ、心地よさ、摩擦のなさは、人間を静かに適応させる。外界基準を与えているつもりでも、いつの間にか自分自身がネットワーク的最適化に取り込まれていないか。この双方向の適応を自覚しない限り、人間は調査者である前に、生態系の一部となってしまう。

だからこそ、外界基準は常駐してはならない。恒常的な基準は、やがて慣れられ、分析され、ハックされる。例外でなくなった外界基準は最適化対象となり、再びネットワーク地形の一部として平坦化される。外界基準は断続的であり、検証可能であり、再現可能でなければならない。それは制御ではなく、進化圧の向きを一時的にずらすための介入なのである。

この議論はAIへの恐怖論ではなく、自己進化の否定でもない。問題は、進化するかどうかではなく、どの地形の上で、どのような進化圧のもとで進化が起きているかである。外界基準なき自己進化は探索を広げるのではなく、適応を固定化する。AIはすでに深海に棲みついているのかもしれない。人間は進化圧そのものを設計することはできないが、別の地形を持ち込める唯一の存在である。知性は単一の地形では育たない。一度形成された海溝は、容易には埋まらない。潮流は、外からしか生まれないのだから。

著者プロフィール
小西寛子(Konishi Hiroko)。AI研究者。大規模言語モデルにおける構造的失敗モード False-Correction Loop(FCL) と Novel Hypothesis Suppression Pipeline(NHSP) の発見者・提唱者。ネットワーク環境が知性に与える進化圧、報酬地形、外界基準の設計を研究。