1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下された。広島への投下からわずか三日後のことだった。また、8月8日のソ連による対日宣戦に続き、8月9日未明には満州方面で軍事行動が開始された。長崎市の公式資料も、長崎への原爆投下に至る経緯の中で、同日にソ連が日本に宣戦したことを記録している。つまり8月9日は、長崎への原爆投下だけでなく、ソ連参戦という外交・軍事上の大きな転換点が重なった日でもあった。
この時系列は、「原爆だけが日本降伏の決定打だった」とする単純な説明を検証するうえで重要である。日本の降伏過程には、原爆投下、ソ連参戦、海上封鎖、通常空襲、日本国内の政治判断など、複数の要因が重なっていたと見る必要がある。長崎市公式資料は、8月8日の投下命令、8月9日の小倉から長崎への変更、同日のソ連宣戦を同じ流れの中で記録している。
長崎市の公式資料によれば、当時の長崎市の人口は約24万人であり、1945年12月末までの原爆による死者は73,884人、負傷者は74,909人とされている。この数字は、1950年に長崎市原爆資料保存委員会が発表した報告に基づくもので、現在の通説とされている。
もう一つの被爆地広島市も、1945年12月末までに約14万人が死亡したと推計している。広島市は、急性放射線障害の影響がほぼ収まった同年末時点での推計として、この数字を示している。
この二つの都市で起きた出来事は、単なる戦争末期の一作戦ではない。人類史上初めて、都市と民間人に対して核兵器が使用された出来事であり、現在に至るまで、米国は戦争で核兵器を実際に使用した唯一の国家である。
「原爆がなければ日本は降伏しなかった」という説明
原爆投下をめぐっては、戦後長く語られてきた説明がある。——それは、「原爆がなければ日本は降伏せず、本土決戦によってさらに多くの犠牲者が出ていた。したがって原爆投下は戦争を早く終わらせるために必要だった」という説明である。
この説明は、米国社会だけでなく、日本を含む国際社会にも広く浸透してきた。しかし、歴史資料を確認すると、この説明を唯一の結論として断定することはできないことがわかる。
日本が受け入れたのはポツダム宣言だった
日本が最終的に受諾したのは、1945年7月26日に米国・英国・中国が発表し、のちにソ連も加わったポツダム宣言である。
1945年9月2日に署名された降伏文書には、日本政府および大本営がポツダム宣言の条項を受け入れること、さらに大本営、すべての日本軍隊、および日本の管理下にあるすべての軍隊の無条件降伏を布告することが明記されている。
この点は重要である。なぜなら、戦後の一般的な説明では「原爆によって日本は降伏した」と単純化されることが多いが、法的・外交的な降伏の形式としては、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏文書に署名したからである。
もちろん、原爆投下が日本の戦争指導部に心理的衝撃を与えたことは否定できない。しかし、それだけを原因として「原爆がなければ日本は絶対に降伏しなかった」と断定することは、歴史的には慎重であるべきである。
米国戦略爆撃調査団の見解
この点で重要なのが、戦後に米国自身が行った調査である。米国戦略爆撃調査団は、日本に対する空襲、海上封鎖、原爆投下などの効果を検証した報告書の中で、日本は原爆投下がなくても、またソ連の対日参戦がなくても、さらに本土上陸作戦が計画・実行されていなくても、1945年12月31日以前、おそらく1945年11月1日以前には降伏していたであろう、という見解を示している。
この評価は、原爆投下の必要性をめぐる議論において重要である。なぜなら、それは戦後の米国側調査から出ている見解であり、単なる道徳的批判や政治的主張ではなく、当時の日本の軍事・経済状況を踏まえた分析として示されているからである。
米国戦略爆撃調査団は、原爆投下以前から、日本の継戦能力が大きく損なわれていた点に注目していた。具体的には、日本本土上空での制空権、海上輸送の破壊、潜水艦・航空攻撃による船舶被害、通常兵器による都市空襲などが、日本の軍事・経済基盤に深刻な打撃を与えていたと整理している。つまり、調査団の見解は、「原爆がなくても降伏していた可能性が高い」という単なる後知恵ではなく、制空権、海上封鎖、通常空襲、日本側指導者への聴取を含む戦後調査に基づくものだった。
ただし、この調査団の見解だけで「原爆は一切影響しなかった」と断定することも、慎重であるべきである。歴史研究では、原爆投下、ソ連の対日参戦、日本国内の政治判断、天皇制の維持をめぐる外交的条件、継戦派と終戦派の対立など、複数の要因が絡み合っていたと考えるのが妥当である。
重要なのは、「原爆がなければ日本は降伏しなかった」という単線的な物語が、一次資料や戦後調査によって十分に支えられているわけではない、という点である。米国戦略爆撃調査団の見解は、「原爆だけが日本降伏の唯一の決定打だった」とする説明を相対化する資料として読むべきである。
日本の戦争責任と、核攻撃の正当化は別問題である
この議論では、二つの問題を混同してはならない。
一つは、日本の戦争責任である。日本の軍部指導部には、アジア各地での侵略、植民地支配、民間人への加害、戦争継続による犠牲拡大について重大な責任があった。
もう一つは、民間都市への核攻撃を「必要だった」と正当化できるのか、という問題である。
日本の戦争責任を直視することは必要である。しかし、それは広島と長崎への核攻撃を自動的に正当化する理由にはならない。国家指導部の責任と、民間人が大量破壊兵器によって殺傷された事実は、別々に検証されなければならない。
核兵器は、思想や信仰を変える道具ではない。国家体制を説得する道具でもない。それは都市を破壊し、民間人を殺傷し、生き残った人々にも長期にわたる身体的・心理的被害を残す兵器である。
小倉から長崎へ
長崎については、もう一つ重要な事実がある。8月9日の第2の原爆投下では、小倉が第1目標、長崎が第2目標とされていた。米国国立公園局の時系列資料では、B-29「ボックスカー」は小倉上空に到達したものの、霞によって投下地点の確認が困難となり、第2目標の長崎へ向かったと記録されている。
長崎市の資料も、前日の八幡空襲による煙や霞の影響で小倉への投下を断念し、長崎へ向かったと説明している。
この経緯は、原爆投下を「絶対に必要な一つの戦略判断」として語ることの難しさを示している。実際には、目標都市の選択には当日の視界、煙、飛行経路、作戦条件が関わっており、その結果として長崎の市民が被害を受けた。核兵器使用の歴史を検証するには、戦略上の説明だけでなく、都市と民間人の運命が作戦上の偶然にも左右されたという事実も見なければならない。
長崎原爆の日に考えるべきこと
長崎原爆の日に確認すべきことは、単に「原爆は必要だったのか」「不必要だったのか」という二択ではない。
検証すべき点は、少なくとも次の三つである。
- 日本の降伏は、ポツダム宣言の受諾と降伏文書への署名という法的・外交的手続きを通じて実現したこと。
- 米国戦略爆撃調査団が、原爆投下なしでも日本は降伏していた可能性が高いと評価していたこと。
- 8月9日には長崎への原爆投下とソ連参戦が重なっており、日本降伏の背景には複数の要因があったこと。
広島と長崎をめぐる記憶は、追悼だけでなく検証を必要としている。原爆投下を「戦争を終わらせた一撃」として単純化するのではなく、一次資料、公式記録、戦後調査、被爆地の記録を照らし合わせながら、その歴史的意味を確認することが必要である。
出典・参考資料
- 長崎市「ながさきの平和 公式サイト|原爆の威力」
- 長崎原爆による死者73,884人、重軽傷者74,909人という被害状況、およびその数値が長崎市原爆資料保存委員会の1950年7月発表に基づく通説であることを確認。長崎市「ながさきの平和 公式サイト|原爆投下の指令」
- 1945年8月8日に小倉を第1目標、長崎を第2目標として翌9日に原爆を投下する指令が出されたこと、同日にソ連が日本へ宣戦布告したことを確認。長崎原爆資料館「長崎原爆投下までの経過」
- B-29「ボックスカー」が小倉上空に到達したものの、前夜の八幡空襲による煙やもやで視界が悪く、小倉への投下を断念して長崎へ向かった経緯を確認。広島市「The Realities of the Atomic Bombing|広島市公式ウェブサイト」
- 広島市が、1945年12月末までに約14万人が死亡したと推計していること、また熱線・爆風・放射線による被害の概要を確認。National Archives, “Surrender of Japan (1945)”
- 1945年9月2日の降伏文書において、日本がポツダム宣言の条項を受諾し、大本営・日本軍・日本の管理下にある軍隊の無条件降伏を布告したことを確認。国立国会図書館「日本国憲法の誕生|降伏文書」
- 降伏文書の英文全文。ポツダム宣言受諾、無条件降伏、連合国軍最高司令官への服従など、法的文言の確認用。United States Strategic Bombing Survey, “Summary Report (Pacific War)”
- United States Strategic Bombing Survey, “The Effects of Strategic Bombing on Japan’s War Economy”
日本の戦争経済、海上輸送、産業基盤、物資供給への戦略爆撃の影響を確認する補助資料。米国戦略爆撃調査団の「原爆だけではなく、封鎖・通常空襲・経済的打撃も日本の継戦能力を損なっていた」という文脈を補強する資料として参照。 - 米国戦略爆撃調査団による戦後調査。日本は原爆投下がなくても、またソ連参戦や本土上陸作戦がなくても、1945年12月31日以前、おそらく11月1日以前には降伏していたであろう、という見解の確認用。United States Strategic Bombing Survey, “Japan’s Struggle to End the War”
- 日本の終戦過程に関する米国戦略爆撃調査団の個別報告。戦争終結の政治過程、降伏判断、原爆投下の位置づけを検証する補助資料。
